著:岸見一郎/古賀史健「嫌われる勇気」を読みました。
イベントで知り合ったカウンセラーもとい「心の空間デザイナー」さんが日本では珍しい?ビブリオセラピーを始めるにあたってモニターを探してらっしゃったので、手をあげモニターにならせていただいて悩み多き僕にこの本を紹介してもらい読みました。
この本は何度も読んで書いてある事を覚えるくらい読み込むか、時々開いてはちょっと読んだり、っとかやったら良い本だと思う。
一回読んだだけで、その気になって、短絡的にタイトルそのままに人に嫌われる生き方をっとかなったら、話の根本を理解できてないと思う。
「人に嫌われる勇気」っという勘違いする人にちょい攻撃的な印象を与える言葉よりも、「自分に正直になる勇気」「どんな自分でも受け入れる勇気」「自分の人生の嘘を暴く勇気」って感じの本かなと。
この本に書いてある「アドラー心理学」の考え方は凄く衝撃だと思ったけれど、ただ、僕が普段考えてる生き方というか考え方を深く掘り下げた本で、違和感なく読めました。
めっちゃ簡潔に言うと僕は「全ては己のせい」だと思って生きているので、大好きなB'zの歌詞で例えると「誰にも寄りかからないでやってくことは 信用するなとか 友情捨てろってことじゃなくて クジが外れてもネチネチ愚痴らず生きてくかどうかだろう」ってとこでしょうか。
この本は青年と哲学者という2人の対話形式で話が進んでいくんだけど、青年はホントに人間味あふれる人間で、例えば「夢や目標、目的がないと生きてる意味がない」とか「周りに良く思われたい」とか、「人間として生まれたんだから何か生きた証を世に残したい」っとか。
要は世の中の暗黙のルールや常識からのプレッシャーに翻弄されてる青年と言ったとこでしょうか。
読んでて、この青年は「そんな生き方しんどくないのかなぁ?」って「苦しいよなぁ」っと思いながら読んでました。
僕も暗黙のプレッシャーに押しつぶされそうになってる1人だから気持ちが、ボキャブラリーがないのでチープな言葉で申し訳ないが「気持ちが分かる」。
僕、いつの間にか人生の半分以上絵を描いていて、若い頃(こう書くとおっさんっぽいけどまだ31です!)は大きな夢も希望もありました。
他者に認められるように、「どう描いたら評価してもらえるのか」「どんな絵を描けば売れるのか?」周りの評価ばっかり気にして描けなくなっていった時もありました。
絵描きにはよくある事だと思います。
誰かに見てもらいたいとか、仕事にしたいとか、僕の場合、結局、他者あっての絵だから。
今も決して夢や希望が無いわけではないけど、いろいろ活動してきて、それでもやっぱダメなことが多くて、自分の力の及ばなさ、実力の無さを言い訳するわけじゃないけど、っていうか言い訳だけど「そんなに夢は必要か?」「大きな目標が必要か?」生きてるだけで丸儲けっとは思わないけど、ただ生きてるだけでってのは辛いけど、大きな夢なんて無くてもいいし、それを無理に探す必要もないし、地位や名誉って必要か?、無理に個性を主張するのはおかしくないか?、普通でいいんじゃないの?、ここでいう「普通」は自分にとっての「自然体」とでもいいましょうか。
なんかね、周りの評価ばっか気にして生きてきたけど、誰かに認めてもらうんじゃなくて「いま、ここにいる自分」に正直になる勇気があれば、グダグダ言い訳してないでダメな自分を肯定できれば、少しは楽になるのかなぁと。
そもそも「ダメな自分」ってのは、無数の人達と比較して生まれてる概念だから、社会的な世界で見れば上下関係もあるし不平等なことだらけだけど、ただ「人間」としてみた時に、誰にでも得意不得意はあるし、そもそも人としてはまごうことなき平等であるので、縦の関係ではなく、意識的に横の関係を作っていく。
っていうか、もう自分が何を言いたいのか分からなくなってきました。
ってことでこの辺で書くのやめときます(。-_-。)
ここに僕個人の事を交えて感想を書きましたが、たぶんまだアドラー心理学を理解してない言葉も多いと思います。
本にも書いてますが、完全に理解するには生きてきた人生の半分の時間を要すると。
例えば二十歳の子がアドラー心理学を学べば、20年の半分で10年の歳月をかけなきゃ理解するのは難しいと。
僕であれば、この本を理解できた時には46歳になってるでしょうか。
46歳になった時に、このブログを読んだらどう感じるのか少し楽しみです。
そもそも、今この本を読んだからアドラー心理学に興味を持っただけで15年後の僕はどうなってるか分からないけどね。
0コメント